1966年1月18日、岡山県岡山市生まれ。岡山東商業高校で野球部に在籍、同級生の八木裕(元阪神タイガース)とともに主力部員として活躍する(捕手として八木とバッテリーを組む)。進学した中央大学では、硬式野球部へ入部し、マネジャーとして活動。王貞治氏の高校時代の恩師でもある宮井勝成監督のもとチームの運営に当たり、故・山本英一郎氏(日本アマチュア野球連盟会長)の知己を得ると、その手腕を買われて全日本大学野球連盟ならびに日本アマチュア野球連盟のマネジャー業務も担当する。
 中央大学卒業時には、当時・西武ライオンズの実質GMだった故・根本陸夫氏や坂井保之代表から同球団への誘いもあったが、将来のための英語習得を目的にカナダに渡る。その後、89年2月にアメリカ・マイナーリーグ1Aのサリナス・スパーズのフロント業務に従事する。当時ヤクルトスワローズや福岡ダイエーホークスに所属していた日本人選手、コーチの世話を始め、球団のチケットセールス、スポンサーシップセールスなど全てのオペレーションに携わり、2年目の90年には24歳の若さで球団代表に抜擢される。アメリカ4大スポーツでは未だに唯一の日本人球団代表となる。

 91年1月、ミネソタ・ツインズ3Aのポートランド・ビーバーズに転職、マーケティング&プロモーションディレクターとして活動。ポートランド市が札幌市と姉妹都市であることに着目し、少年野球交流を目的としたイベントを実現させた(当時で、日本人が3Aで正社員となったのは初めてであった。)

1A、サリナス・スパーズのオフィスにて

1A、サリナス・スパーズのオフィスにて

現コロラド・ロッキーズのデニー・ニーグルと。(1991年)

現コロラド・ロッキーズのデニー・ニーグルと。(1991年)

  • 2001年シーズンのホームラン王、バリー・ボンズと。(1992年)

    2001年シーズンのホームラン王、
    バリー・ボンズと。(1992年)

  • 2632試合連続出場世界記録保持者カル・リプケンと。(1995年)

    2632試合連続出場世界記録保持者
    カル・リプケンと。(1995年)

  • 3A、ポートランド・ビーバーズのオフィスにて

    3A、ポートランド・ビーバーズのオフィスにて


「週刊文春」(1994年3月17日号)1 「週刊文春」(1994年3月17日号)2

 93年3月、3Aでの実績を認められ、 ウォルトディズニー社が立ち上げたディズニー・スポーツ・エンタープライズ社にヘッドハンティングされ、同社が経営するNHLアナハイム・マイティーダックスのマーケティング・セールスを担当する。
 アメリカ・メジャースポーツ界の球団フロントで、日本生まれの日本人としては初の正社員となった。牛丼の吉野家をアメリカで初めてスポーツスタジアム内に出店させたことは、とてもユニークでアメリカでも話題となった。
 同年8月末、当時日本で人気急上昇していたNBA、そのNBAチームのニュージャージー・ネッツにヘッドハンティングされる。ネッツではインターナショナルマーケティングディレクターとして、日本企業(ミノルタ、コニカ、日産、アイワ、カシオ、ブラザー、シャープ、ゼブラ、マクセル、スバル)を中心に多くのスポンサーシップを獲得する。この時期は、スポーツマーケティング界では世界的に著名なジョン・スポールストラの右腕として活躍する。

左は「週刊文春」(1994年3月17日号)に紹介された記事。
ニュージャージー・ネッツの本拠地メドラウンズ・アリーナにて

(写真下記事)
 身長二メートルを越す大男とチアガールに持ち上げられているのは、日本でも人気沸騰の米プロバスケットボール(NBA)界ただ一人の日本人、岡本佳文さん。マンハッタンからバスで二十分足らずのメドーランド・アリーナを本拠地とするニュージャージー・ネッツで、昨年八月から国際営業部長として日系企業を中心にスポンサー獲得に東奔西走。若干27歳の若さだが、NBAチームのれっきとしたお偉いさんなのである。
 岡山東商-中央大の野球部で活躍。高校時代は八木裕選手(現阪神)とバッテリーを組んでいた。1988年に渡米したのだが、わずか六年で立身出世した岡本氏はいきなりこう言うのだ。

「文春の読者で日本から来ていただいた方に、今シーズン(4月23日が最終日)のホームゲームの無料チケットを一人につき二枚贈呈しましょう」
「本当ですか?文春80万読者がドーッと依頼してきたらどうするんですか」「そうなったら嬉しいですね」
 渡米後はプロ野球1Aセリナス、3Aポートランドの営業職、そしてプロホッケーチームのフロントでも汗を流した後、NBAにやってきた。
「バスケットは素人ですが、経営面ではまったくと言っていいほど一緒ですよ」チャンスがあれば再び野球に戻りたいという岡本氏だが、その前にこの出血サービスの件を片付けるという。


 95年11月、かねてからの「30歳までに独立」という目標どおりにネッツを退社し独立。96年、アトランタ・オリンピックの出場する野球の日本代表チームのサポートを買って出る。その活動のなかで、日本ではまだプロとアマチュアの試合が不可能な時代に、メジャー球団(ミネソタ・ツインズ)とのプレシーズンマッチを実現させる。このゲームはNHKでTV中継され、日米の野球関係者の話題を呼ぶ。
 02年、きこ書房から『メジャーリーグに就職する方法』を出版。それを機に、スポーツ界への就職をバックアップするセミナーを日米で継続的に開催している。セミナーを受講した塾生の中でも、特に将来、日本や海外でスポーツ・ビジネスに携わりたいという高い志をもった方々に、アメリカのスポーツチームでインターンができるようにサポートをしている。今では多くの受講生がプロ野球球団やJリーグクラブをはじめとして、スポーツ界の第一線で活躍。これまでNHKを始めテレビ朝日、TBS、テレビ東京などでNBA、NHL等に関するコメンテーターを務めるほか、日刊スポーツ新聞や雑誌等にコラムを掲載してきた。

 2006年5月、株式会社OSM Internationalを日本に設立し、代表取締役を務める。ウォルト・ディズニー・ジャパン社とライセンス契約を締結し、ディズニーキャラクターと日本プロ野球、サッカー等のスポーツ界とのコラボレーションシリーズ「“Disney Athletes”シリーズ」として、商品企画、商品化に成功。
 2006年には、Hoshino Dreams Corporationを米国ニューヨーク州に設立し、代表取締役社長を務める。米国野球マイナーリーグチームへの出資・共同経営の準備を本格的に開始し、2007年10月にはアメリカ野球殿堂入りプレイヤーであるジョージ・ブレット氏が保有するメジャーリーグ、コロラドロッキーズ傘下のマイナーリーグ球団「Tri-City Dust Devils」への出資を実現して共同オーナーとなった。人材育成を目的として始めたマイナーリーグ球団の出資は現在でも続いており、(出資者として星野仙一氏の他、数名と数社が出資をしている。)スポーツ・ビジネス界への就職を志す若者たちにインターンシップの場を提供し、サポートしている。

 2011年5月、株式会社OSM International代表取締役を退任した後、野球用品メーカーとして2012年で125周年を迎え、MLBやWBCの公式ボールとしても有名なRawlings Sporting Goods Company, Inc. にヘッドハンティングされ、日本法人Rawlings Japan LLCのPresident/GMに就任。2016年退任。

  • プロフィール

    1996年、アトランタオリンピック野球日本代表。
    オリンピック後、秋田で開かれたイベントにて。
    (写真右端:岡本)

  • プロフィール

    1999年11月、東京ドームで行われた
    NBA開幕戦。試合後、ケビン・ガーネット
    (現ティンバー・ウルブス)にインタビュー。

  • プロフィール

    友人の新庄剛志(SF・ジャイアンツ)と